開拓使(北海道の開拓にあたった明治前期の行政機関)は、寒冷な気候の北海道で、稲作栽培は不適当であるという外国人技術者の見解を取り入れ、畑作や酪農を奨励していました。しかし、入植した農民たちは、米作・米食への強い執着を捨てきれませんでした。
富良野地域の米作りは、1899年(明治32年)、扇山の繰上貞次氏が自宅裏の湿地約5畝(約500㎡)に試作し、6斗(約600合)の収穫を得たことから始まります。当時は、富良野原野で米がとれるなど誰も夢想だにしていませんでした。用水を掘る難しさ、用水が掘れても水が地底に浸透して、下流に流れるはずがないからです。貞次氏は息子6人を従え、約1ヶ月半かかって布礼別川の通水に成功。開墾造田に一家を挙げて努力したことで、地区内に稲作を希望する者が続出。農場主や支配人中村千幹氏も多大な援助を行い、現在の水路が成功したのでした。
水稲発祥之地碑は、繰上貞次の功績を称えて1952年に富良野開町50周年事業の一環として建立されました。(資料提供 富良野市生涯学習センター)
取材日:2012年12月3日(月)