中村千幹(なかむら ちから 1867-1916)は福岡県出身です。開拓の夢を抱え、1896年(明治29)、6人の仲間と共に入地。富良野原野にたどりつき、扇山に仮小屋を建てて目印としました。翌年、妻を連れて、旭川経由で富良野に入植。富良野での生活を始めました。扇山の筑後組合農場(後の佐々木農場)の管理人となり、富良野原野を農業地として開拓するだけではなく、道路づくり、布礼別川の工事などの計画に加わりました。
中村は、富良野市の開拓に初めて緒をつけた人物であり、地域の開拓に大きな功績を残しました。 入植当時の模様が、夫人のコウの口述筆記で残されています。
「明治30年(1897年)5月5日旭川発(中略)早朝、富良野に向かいました。鬱蒼たる密林と丈余の熊笹に間を縫って、かすかな一本道、いや人の通ったと思われる跡があるだけでした。中村は時々空に向け鉄砲を撃って進みました。随分辛い思いをして今の9線付近に辿り着いた時には、日はとっぷりと暮れ果てました。目指す仮小屋はもう間近と思いながら、日が暮れては一歩も動けぬ当時でした(~後略)」(「民衆が語る富良野100年のあゆみ」より)
それから19年、中村千幹は、1916年(大正5)に51歳で病死します。その53年後、富良野市開基70周年を記念して像が富良野市役所に建立されました。(資料提供 富良野生涯学習センター)
取材日:2012年10月2日(火)・31日(水)